ラストは嗚咽が漏れないように、タオルを口元に押し込む始末。
ちょっと危ない人仕様だった。
常に涙で前が見えなかった。
この物語は、子供のころに、児童向け文庫で読んだきりだった。
そして大人になった今日、ミュージカルという形で再会した。
つくづく思った、子供のころの読書は、将来に向かってまく種だと。
あのとき感じたこと、見えてたこと、それがこんなにも変わるなんて。
子供のころは、どうしても主人公目線で考えるので、ジャベールが単なる悪役にしか思えなかった。
だが、今は思う。
私はジャベール派だ。ああいう風に生きてきてしまった。
罪人、悪人、この世の「悪」は絶対で、その対極の善良であることがすべて正しいと。
悪いことをしたものは、必ずその報いを受けるのだと。
正しいことは常に正しいのだと。
正しい人間は、悪人を糾弾してもいいのだと。
そうあるべきだと。
心のどこかで、ずっとずっと思っていた。
けれど、考えてみたら。
常に世の中が公平で、正しくて、正当な主張が常に通るわけではない。
理不尽で、悪いものがのさばり、正義を守った人間がクズのように扱われることもある。
世界が常に、公正だと、思いこんでいた。
悪い奴がのさばったり、正しいことしていても報われなくて、当たり前なんだ。
正と悪なんて、意味がないこともある。
だから「ああ、無情」なんだ。
自分の命にひとしいくらい大事な人が、不当な扱いを受け、それを助けられず、死なせてしまったり・・・そういうことは、こんな平凡な私にすら起こったんだから、誰の身にも起こりうる、ありふれた「不運」なんだろう・・・。
ジャベールの「あいつは俺に生を与えることで殺した」というセリフは深すぎた・・・。
ジャン・バルジャンは、同じ時、改心をしたけれど、ジャベールは死を選んだ。
人の慈愛に、生と死と、二人は両極を選んだ。
どちらも間違っていないと、信じたい。
私はジャベールの葛藤、苦しみが、分かってしまった。
そしてエポリーヌ。
ヒロインのコゼットは常に善良で、報われていて、屈折を知らずに生きている。
昔は彼女を虐げる側だったエポリ-ヌは、長じて立場が逆転し、みすぼらしい身に落ち、さらに想い人までコゼットに奪われる。
報われない恋、屈折した過去、それでもエポリーヌは、芯まで悪魔に売り渡さなかった。
そして死によって、人々の胸を打った。
子供のころに読んだお話と、全然違う。
子供のころに植えた種が、いま、こんなに複雑な花を咲かせた。
あの頃は見えてなかったいろいろなものが、今は見える。
世界が全く違って見える。
今まで見たあらゆる舞台の中で、一番、感動した。
こんな素晴らしいものを今日まで観なかったのは、たぶん、本当にこんなに素敵な感動を理解できるまで、自分の中のあの日の種が育つのに時間がかかったからだと思う。
早すぎても意味がない、遅すぎても意味がない、今日、この日で良かった。
世の中は決して公正ではないけれど、それを言い訳にしない人生を歩きたいと思った。
興味がわいたので個人的にその後も色々と調べてみたのだが、ロシア、というよりも旧ソ連と私の心の間に超えられない壁ができた。むりむり。まじむり。
しかし、いかな絶望があろうとも、ポジティブな御仁というのは、いつの時代にも存在する。
そしてあたかも絢爛舞踏のように、人類の決戦存在として燦然と輝くのだ。
以下、シベリア抑留者の方の体験談を抜粋します。
ナイーブな人は、読まずに回避してください。
反転。
「冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這い寄ってくるのを感じると、思わず心がはずんだものだった。
それは隣に寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからね。シラミは人が死にかけると、体温がある方へ一斉に移動するんだ。あすの朝にはこの仲間の着ているものをいただけるな、とシラミたちを歓迎するような気持ちになったものだった。あいだに寝ている男が死ぬと、両隣りの仲間にその死人の持ちもの、靴や下着や腹まきや手袋なんかを分けあう権利があったからね」
(五木寛之著『大河の一滴』)
反転終了。
最強だよ!!
そんな絶望的な状況で、心はずみますか!?
前向きすぎる。
私には無理だ。
そしてイリヤ・レーピンの絵画を見ると、ますますかの北国との間に溝ができる。
特に「皇女ソフィア」は・・・なんかもうすげえ。
メメント・モリなど、まぬるいわ、と言わんばかりだ。
人間どんな状況でも、生きていくことができるんだ、と。
人間は「生きる」ことを、常に選択できるんだ、と。
ゲーテも言うてはる。
人間、どう生きたか、じゃなくて、どう生きるか、これしか問われていないと。
生きることだけ考えたらいい。
それだけでええ。
生き方なんぞ大事じゃねえ。
生きろ。
四の五の言わずに生きろ。
生きてる者の唯一絶対の義務じゃ。
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
それでええんじゃあああああああ。
例によって上司とサシで再度飲んだのですが、会社というものにより一層絶望した。
しかし、定年まで勤めあげようという上司は、こんな清濁併せ呑んで、家族を養ってきたんだと思うと、やっぱオッサンという生き物はすげえ。偉大だ。よくぞこの世界で、生き延びてきた。
私はオッサンを心から賛美します。
シベリア抑留から何故この話の流れに・・・。
以前、一人暮らしをしようとしていた時、父が病気でぶっ倒れて入院、すっかり取り乱した母は一人で電車の切符も買えない動揺っぷりで、頼みの綱の長男(兄)に連絡するも「あっそ、フーン」(つくづく男兄弟は使えねえ気がきかねえ役に立たねえつうかいらねえ!!!)で終了だったので、断念した。
しばらくは経済的な理由も考えて、静観していたが、そろそろいいだろう、と。
でもまた諸問題がわきあがる。
・・・・・・・・色々ともう面倒くさい。
そんな中、唯一得るものがあったとすれば、ゴルゴ13はギランバレー症候群だった事を知った、ということだ。
幸村が一時期、この病気の疑いがあった(実際は酷似した別種の奇病ということだった)。
もしそうだったら、ゴルゴ13と幸村、対極のように見えて実は限りなく近似値だった気がする。
さすが、どちらも私が惚れた男。
何年も、辛い思いをして働いていて、「ああ、良かったな」って思うことは正直少ない。
その少ないうちの一つ。
「昔、お世話になった上司の愚痴を聞いてあげられるようになった自分」。
誰かれ構わず愚痴を言う弱い上司もいる、甘ったれな奴もいる、でも、そうじゃない人に「一人前と認めてもらって」愚痴を言ってもらえるのって。
それを酒の肴に聞ける自分って。
ああ、けっこう長く社会人をやってて良かったなぁと思った。
ちょっとオトナになった気分だった。
辛くても頑張ってきて良かったなぁ、と思った。
そして久々に会ったそんな上司に「結婚するか、職掌転換して出世するか、どちらか選べ」と言われた。
出世するなら「出張、転勤の頻度が笑えるくらいなのでまず結婚、子育ては永久に無理」な職掌に転換、さもなくば1秒でも早く結婚しろ、と。
お前はミハエル(cv緑川光)か!!
真ん中を突っ切らせてくれ!!
気分はクリムゾン・エンパイア。
メルアド変わりました、の連絡で、嫁ぎ先の姓を名乗られてると一瞬パニックになる。
ケーコ!?ケーコって、どこのケーコ!?
思いだした。そういえば、昔ここの日記でも書いたかもしれませんが、非常にうっとうしい友人K(っていうかケーコ)と、輪をかけてうっとうしいその彼氏が、めでたく結婚しました。女同士のケンカに口突っ込んでくる馬鹿男と、「○ちゃん、変わったよね・・・!」とか三文芝居的なセリフを真顔で言った女で構成される伝説のバカップル。
根は純粋でいい子たちなんです。
ただ、若干うっとうしくて空気読まなくて思いやりが足りないだけで。
プロポーズにもたもたしている彼氏に業を煮やした彼女に「私と結婚する気があるのか、あなたから(私の彼氏に)聞いて!」と言われた時は、この子、末期だ、と脱力したのですが、まあめでたい感じでまとまったならよし。
悪しざまに書いてますが、悪しざまに言っても許されるくらいあのバカップルに振りまわされた身としては、もっと言ってやりたい。
でも一番言いたいことは。
振りまわされた私が一番馬鹿だ、ということだ。