ずっと思っていました。
処女で懐妊したら、どんな気持ちになる?
神様の子供を身ごもる、そんなの信じられるか?
それ以上に、婚約者が妊娠したと聞かされた男の気持ちは??
イエス誕生の話を聞くたびに、どうにも腑に落ちないのです。
学び舎がたまたまキリスト教に縁深かったこともあり、キリスト教についてふれる機会はわりと多かったと思います。そしてそのたびにぬぐえなかったこの疑問。
「そんなもん」といわれたら「そんなもん」ですし、宗教の崇高な信仰の対象を、下賎な目線でみることは冒涜だと言われたらそれまでですが、客観的にとにかく、『納得がいかない』。
すべては信仰心の賜物だと言われたら、他宗教(無信仰)の私には永遠に理解できない。
私の中に答えがないので、外に探すことにした。
・・・ということで、前置きが長くなりましたが、イエス誕生までをえがいた映画「マリア」を見てきました。
一言で言うと、『納得した』。
そうか、不安や恐怖を克服して乗り越えて、さあ、神の子供を産むぞ!と気持ちを切り替えないと産めないわけじゃない。迷ったまま、最後まで迷ったまま、それでも産める。無理に気持ちの整理をつけなくてもいいのだ。
映画中のマリアは貧しい村「ナザレ」で生まれ育った。昔歌った賛美歌に出てくる「ナザレのマリア」の意味を、ようやくここで理解する、なんだかんだと結局はキリスト教にうとい私。
しかしこの映画のヨセフ(マリアの婚約者)がえらくかっこいい!!
いや、見た目だけじゃなくて、本当にかっこいい!
お前、マリアに惚れてんな?この、この!
と、大工仲間にこづかれるシーンがありますが、まさに私の心も同じだった。
そしてマリアへの好意の示し方も、実に男らしい。
漢だよ、漢。
寡黙なくせに、言葉よりもにじみ出る好意がもう見ていて「たまりませんなあ!」と身を乗り出しそうになった。
聖書によれば、マリアは当時14歳くらい、ヨセフはかなり高齢という書かれ方だったが、映画では(実際に俳優さんたちの年齢差も)10~15歳差くらい。想像していたよりも、違和感がなかった。
マリアの方では、同年代の男の子の方が気になっていたので、よく知りもしないすごく年上のヨセフと婚約させられるなんて、まさに晴天の霹靂だ。しかし当時では家長(おとん)が絶対であり、こんな風に結婚を親が決めるのは当たり前だったようだ。
婚約を告げられ、とまどうマリア、嬉しくて嬉しくてしょうがない様子のヨセフ。
愛のささやきはないけれど、「新しい家を作っているんだ。・・・家族と住む」と、言葉すくなに告げてくるヨセフに、むしろあたしがそのプロポーズもらったぁ!というくらいツボだった。ここのところ、乙女ゲー等でデロデロに甘い恋の台詞を飽和状態まで聞きなれた身に、かえってこういった素朴であけすけな愛情表現の方がぐっと来ました。
そしていよいよ運命の「受胎告知」。
ガブリエルが強そう。
宗教画にあるような女性の姿でも、中性的でもなく、ひげの濃いゴッツたくましい天使が告げます「恵まれた子よ、主があなたと共にある」。そして「恐れるな」。無茶言うなびびるよ。
マリアはあまりのことに呆然とし、妊娠してると言われてついうっかり「男の人を知らないのに?」とかなりあけすけに返答。
あれよあれよと言う間に受胎告知は終わります。
くどいようですが、宗教画のように白い百合も、マリアの糸まき(もしくは本)もなく、本当にそっけない雑木林みたいなところで、前述の強そうなガブリエル(羽も後光もない、本当にふつうの男の人)に告知される。
マリアは、ようやく、一言だけ口にする「・・・お言葉どおり、この身におきますように」。
台詞だけは聖書の通りである。
さあ、ここからである。
半信半疑のマリア、ガブリエルが言った奇跡の一つを確かめるため、高齢になっていた従姉のエリザベトを訪ねる。そして神の奇跡がエリザベトに起きたことを確信する。
マリアが言う。「どうして私だったのかしら?」。それに対してエリザベトはただ黙って彼女を抱きしめる。
・・・そうか、その問いに答えられる人は、この世に一人もいない。
そんなとき、人がしてあげられることは、ただ、抱きしめることだけだろう。
マリアもきっと、答えがほしかったのではなくて、この不安と恐怖を告げたかったのだろうなあ、と思う。
そして、エリザベトのもとを去り、ナザレに戻るマリア。
ナザレでは、まさに新居をせっせと作っているヨセフの姿ある。
マリアが帰ってきた!と聞いて、慌てて飛び出すヨセフ。
せっせと髪をなでつけたり、ソワソワと進み出る彼の顔には泥がついていて、それをまた大工仲間がからかい半分にぬぐってやる。
しかし、現れたマリアのお腹は、明らかに膨らんでいた・・・・。
当時、婚約期間中の1年、女は貞淑を守らなければならない。
それを破ると、既婚者よりも強い罰をうけることとなった。
石を投げつけられ、処刑される大罪だ。
神の子だ、と両親とヨセフの前で告白するマリア。
しかし誰も信じられない。母親は言う。「・・・兵隊に、乱暴されたの?」。
当時、身分制の最下層にいる庶民は、王や役人たちにそれはひどい仕打ちを強いられていたのだ。
兵士に無体を強いられ、傷物にされたとしても仕方がないくらいに。
マリアは嘘は言っていない、と告げる。
ヨセフは言う。「私がどうして君を妻に選んだか、わかるか?」。
目で問うマリアに彼は言う。「君が善良な女だからだ」。
この後の彼の葛藤を、説明するのは難しい。
人々に石でもって打たれようとする、愛する少女を夢で見て、慌てて跳ね起きるヨセフ。
愛しているからこそ許せない、いきどおろしい、でも、愛する人をそんな残酷なことで殺されたくない。
紆余曲折を経て、二人は旅に出る。
旅の途中でマリアはヨセフに尋ねる。「恐ろしくない?」。
ヨセフは答える。「恐ろしいよ。君は?」マリアも答える「私もよ」。
人々が切望している救世主、それが自分の身に、愛する人の身に、宿されている。
人知の及ばない力の前に、ただ平凡な人間でしかない二人は恐怖をいだいた。
しかし、ヨセフはこうも言う。「私は君の夫で、君は私の妻だ。それだけだ」。
私が長い間、どんなに考えても理解できなかったことが、実にシンプルな事に集約されていた。
迷い、恐れ、傷ついて、答えなんて出なくても人は生きていける。
自分を愛してくれる人、自分が愛する人、自分を信じてくれる人、信じさせてくれる人、そんな存在がいて、自分はひとりではないことを知る。
私が一番心に残ったのは、二人が旅の終わりに近づく頃に出会った羊飼いのおじいさん。
寒そうにしているマリアに、焚き火にあたるようにすすめる彼に、「生まれてくる子に、あなたの親切を話しますね」と感謝をするマリア。しかし彼はそれに直接答えようとせず、無表情のまま話し出す。「私の父が言っていた。人間は必ず何かを授かる、と。あなたはそのお腹の子を授かったんだね」。マリアがまさか神の子を授かっているとは知らないで、何の気なしに語ったであろうその言葉に、マリアは聞き返す。あなたは何を授かったのですか?と。老人は「何も。ただ、いつか授かるかもしれないという希望だけだ」。当時、最下層の貧しい身分とされた羊飼い。いよいよイエス誕生となった夜、真っ先にマリアのもとに駆けつけたのは、奇しくも、天使のお告げを聞いたその羊飼いであった。
救世主である幼子に手を伸ばし、躊躇って手を引っ込めた彼にマリアは笑う。
「(この子は)全ての人のものよ。私たち全てに授かった子よ」。
老人は恐る恐る、幼子の柔らかな頬に手を伸ばす―――
旅の途中、ヨセフの朴訥な優しさに触れ、少しずつ、マリアの心は開かれていく。
お互いに危険を乗り越え、辛いときにはそっと手を重ねたりする。
お腹の子供に「あなたを育ててくれる人は、情け深い人よ」と称えるほど、常に、全力で、ヨセフはマリアとその子供を守り抜いた。
出産後、気遣ってくれるヨセフに、マリアは微笑んだ。「大丈夫。力をもらったから。・・・神様と、そして、あなたに」。
この映画のアオリ文句の一つに『愛の物語』というものがあった。
愛の物語、と聞いて、私は短絡的に男女の愛情のことだと思っていた。
ヨセフとマリアの恋愛がテーマか、それは斬新だなぁ、と。
しかし見終えた後に思う。
ちがう、この「愛」とは、そういうことじゃない。
男女の愛、親子の愛、友人との愛・・・・そういうことではなくて、人間がごく自然に持っているもの、姿も形もないから、あえて言葉にするのならば『愛』。
具体的な何かではなく、もっと大きくてささやかな、でも絶対的なものの総称を『愛』と呼称するのだ。
正直、この映画は本当につまらないです。
物語に山場も何もあったもんじゃない、劇的なストーリーやうっとりするようなシーンはありません。
「面白い映画」を観たいひとには、絶対にすすめない。
でも、心を洗いたいという方には、是非観て頂きたい。
そんな映画でした。
処女で懐妊したら、どんな気持ちになる?
神様の子供を身ごもる、そんなの信じられるか?
それ以上に、婚約者が妊娠したと聞かされた男の気持ちは??
イエス誕生の話を聞くたびに、どうにも腑に落ちないのです。
学び舎がたまたまキリスト教に縁深かったこともあり、キリスト教についてふれる機会はわりと多かったと思います。そしてそのたびにぬぐえなかったこの疑問。
「そんなもん」といわれたら「そんなもん」ですし、宗教の崇高な信仰の対象を、下賎な目線でみることは冒涜だと言われたらそれまでですが、客観的にとにかく、『納得がいかない』。
すべては信仰心の賜物だと言われたら、他宗教(無信仰)の私には永遠に理解できない。
私の中に答えがないので、外に探すことにした。
・・・ということで、前置きが長くなりましたが、イエス誕生までをえがいた映画「マリア」を見てきました。
一言で言うと、『納得した』。
そうか、不安や恐怖を克服して乗り越えて、さあ、神の子供を産むぞ!と気持ちを切り替えないと産めないわけじゃない。迷ったまま、最後まで迷ったまま、それでも産める。無理に気持ちの整理をつけなくてもいいのだ。
映画中のマリアは貧しい村「ナザレ」で生まれ育った。昔歌った賛美歌に出てくる「ナザレのマリア」の意味を、ようやくここで理解する、なんだかんだと結局はキリスト教にうとい私。
しかしこの映画のヨセフ(マリアの婚約者)がえらくかっこいい!!
いや、見た目だけじゃなくて、本当にかっこいい!
お前、マリアに惚れてんな?この、この!
と、大工仲間にこづかれるシーンがありますが、まさに私の心も同じだった。
そしてマリアへの好意の示し方も、実に男らしい。
漢だよ、漢。
寡黙なくせに、言葉よりもにじみ出る好意がもう見ていて「たまりませんなあ!」と身を乗り出しそうになった。
聖書によれば、マリアは当時14歳くらい、ヨセフはかなり高齢という書かれ方だったが、映画では(実際に俳優さんたちの年齢差も)10~15歳差くらい。想像していたよりも、違和感がなかった。
マリアの方では、同年代の男の子の方が気になっていたので、よく知りもしないすごく年上のヨセフと婚約させられるなんて、まさに晴天の霹靂だ。しかし当時では家長(おとん)が絶対であり、こんな風に結婚を親が決めるのは当たり前だったようだ。
婚約を告げられ、とまどうマリア、嬉しくて嬉しくてしょうがない様子のヨセフ。
愛のささやきはないけれど、「新しい家を作っているんだ。・・・家族と住む」と、言葉すくなに告げてくるヨセフに、むしろあたしがそのプロポーズもらったぁ!というくらいツボだった。ここのところ、乙女ゲー等でデロデロに甘い恋の台詞を飽和状態まで聞きなれた身に、かえってこういった素朴であけすけな愛情表現の方がぐっと来ました。
そしていよいよ運命の「受胎告知」。
ガブリエルが強そう。
宗教画にあるような女性の姿でも、中性的でもなく、ひげの濃いゴッツたくましい天使が告げます「恵まれた子よ、主があなたと共にある」。そして「恐れるな」。無茶言うなびびるよ。
マリアはあまりのことに呆然とし、妊娠してると言われてついうっかり「男の人を知らないのに?」とかなりあけすけに返答。
あれよあれよと言う間に受胎告知は終わります。
くどいようですが、宗教画のように白い百合も、マリアの糸まき(もしくは本)もなく、本当にそっけない雑木林みたいなところで、前述の強そうなガブリエル(羽も後光もない、本当にふつうの男の人)に告知される。
マリアは、ようやく、一言だけ口にする「・・・お言葉どおり、この身におきますように」。
台詞だけは聖書の通りである。
さあ、ここからである。
半信半疑のマリア、ガブリエルが言った奇跡の一つを確かめるため、高齢になっていた従姉のエリザベトを訪ねる。そして神の奇跡がエリザベトに起きたことを確信する。
マリアが言う。「どうして私だったのかしら?」。それに対してエリザベトはただ黙って彼女を抱きしめる。
・・・そうか、その問いに答えられる人は、この世に一人もいない。
そんなとき、人がしてあげられることは、ただ、抱きしめることだけだろう。
マリアもきっと、答えがほしかったのではなくて、この不安と恐怖を告げたかったのだろうなあ、と思う。
そして、エリザベトのもとを去り、ナザレに戻るマリア。
ナザレでは、まさに新居をせっせと作っているヨセフの姿ある。
マリアが帰ってきた!と聞いて、慌てて飛び出すヨセフ。
せっせと髪をなでつけたり、ソワソワと進み出る彼の顔には泥がついていて、それをまた大工仲間がからかい半分にぬぐってやる。
しかし、現れたマリアのお腹は、明らかに膨らんでいた・・・・。
当時、婚約期間中の1年、女は貞淑を守らなければならない。
それを破ると、既婚者よりも強い罰をうけることとなった。
石を投げつけられ、処刑される大罪だ。
神の子だ、と両親とヨセフの前で告白するマリア。
しかし誰も信じられない。母親は言う。「・・・兵隊に、乱暴されたの?」。
当時、身分制の最下層にいる庶民は、王や役人たちにそれはひどい仕打ちを強いられていたのだ。
兵士に無体を強いられ、傷物にされたとしても仕方がないくらいに。
マリアは嘘は言っていない、と告げる。
ヨセフは言う。「私がどうして君を妻に選んだか、わかるか?」。
目で問うマリアに彼は言う。「君が善良な女だからだ」。
この後の彼の葛藤を、説明するのは難しい。
人々に石でもって打たれようとする、愛する少女を夢で見て、慌てて跳ね起きるヨセフ。
愛しているからこそ許せない、いきどおろしい、でも、愛する人をそんな残酷なことで殺されたくない。
紆余曲折を経て、二人は旅に出る。
旅の途中でマリアはヨセフに尋ねる。「恐ろしくない?」。
ヨセフは答える。「恐ろしいよ。君は?」マリアも答える「私もよ」。
人々が切望している救世主、それが自分の身に、愛する人の身に、宿されている。
人知の及ばない力の前に、ただ平凡な人間でしかない二人は恐怖をいだいた。
しかし、ヨセフはこうも言う。「私は君の夫で、君は私の妻だ。それだけだ」。
私が長い間、どんなに考えても理解できなかったことが、実にシンプルな事に集約されていた。
迷い、恐れ、傷ついて、答えなんて出なくても人は生きていける。
自分を愛してくれる人、自分が愛する人、自分を信じてくれる人、信じさせてくれる人、そんな存在がいて、自分はひとりではないことを知る。
私が一番心に残ったのは、二人が旅の終わりに近づく頃に出会った羊飼いのおじいさん。
寒そうにしているマリアに、焚き火にあたるようにすすめる彼に、「生まれてくる子に、あなたの親切を話しますね」と感謝をするマリア。しかし彼はそれに直接答えようとせず、無表情のまま話し出す。「私の父が言っていた。人間は必ず何かを授かる、と。あなたはそのお腹の子を授かったんだね」。マリアがまさか神の子を授かっているとは知らないで、何の気なしに語ったであろうその言葉に、マリアは聞き返す。あなたは何を授かったのですか?と。老人は「何も。ただ、いつか授かるかもしれないという希望だけだ」。当時、最下層の貧しい身分とされた羊飼い。いよいよイエス誕生となった夜、真っ先にマリアのもとに駆けつけたのは、奇しくも、天使のお告げを聞いたその羊飼いであった。
救世主である幼子に手を伸ばし、躊躇って手を引っ込めた彼にマリアは笑う。
「(この子は)全ての人のものよ。私たち全てに授かった子よ」。
老人は恐る恐る、幼子の柔らかな頬に手を伸ばす―――
旅の途中、ヨセフの朴訥な優しさに触れ、少しずつ、マリアの心は開かれていく。
お互いに危険を乗り越え、辛いときにはそっと手を重ねたりする。
お腹の子供に「あなたを育ててくれる人は、情け深い人よ」と称えるほど、常に、全力で、ヨセフはマリアとその子供を守り抜いた。
出産後、気遣ってくれるヨセフに、マリアは微笑んだ。「大丈夫。力をもらったから。・・・神様と、そして、あなたに」。
この映画のアオリ文句の一つに『愛の物語』というものがあった。
愛の物語、と聞いて、私は短絡的に男女の愛情のことだと思っていた。
ヨセフとマリアの恋愛がテーマか、それは斬新だなぁ、と。
しかし見終えた後に思う。
ちがう、この「愛」とは、そういうことじゃない。
男女の愛、親子の愛、友人との愛・・・・そういうことではなくて、人間がごく自然に持っているもの、姿も形もないから、あえて言葉にするのならば『愛』。
具体的な何かではなく、もっと大きくてささやかな、でも絶対的なものの総称を『愛』と呼称するのだ。
正直、この映画は本当につまらないです。
物語に山場も何もあったもんじゃない、劇的なストーリーやうっとりするようなシーンはありません。
「面白い映画」を観たいひとには、絶対にすすめない。
でも、心を洗いたいという方には、是非観て頂きたい。
そんな映画でした。
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